どうも、つるです。
よく、「親が会社に就くことを希望しているので、就職します」とうい人がいます。
こういった意味のフレーズを聞くたびに、私は少し悲しくなります。
「ああ、殺されてるな」と思います。
彼ら・彼女らは、「期待」に殺されているのです。
Contents(目次)
期待とは何か?
さて、期待を辞書で引くと、こう出ました。
あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。
このうち、私が今回言いたい"期待"とは、「他者への期待」です。
例えば、
- あの人はいずれ立派な会社員になるだろう
- あの人は絶対に大物になる…予感
とか、こういうものです。
期待が人を殺す
そして、唐突な入りになりますが、期待は人を殺します。
といっても、何も難しいことを言おうとは思っていません。
冷静になって考えてみれば至極当然のことです。
例を挙げるとしたら、親からの期待。
よくある話としては、「うちの子は○○大学に入ったのだから、きっと大手企業に就職してくれるだろう」というもの。
これで子ども自身が自主的に大手企業に就くことを目指しているのなら、何も問題は無いでしょう。
しかし、そうでなかったとしたら…?
本当は、子どもは起業してフリーランスになりたいと考えていたら…?
きっと、親子のどちらかの望まない未来が待っているでしょうね。
子どもが親の期待に応えるため、仕方なくフリーランスの夢をあきらめて、大手企業に就職するか。
あるいは、子どもが自身の夢をつらぬくことで、親が「期待通りにならなかった」と悲しむか、です。
どちらにしても、親子ともに望まない結果でしょう。
しかし、問題なのは前者。
「子どもが親の期待にこたえた場合」、これは深刻です。
なぜなら、子どもは親の期待にこたえるために、自身の夢をあきらめているからです。
自身の「夢の実現」の放棄、これはつまり、人生の選択を他者にゆだねるということです。
…単刀直入に言いましょう。
「自身の人生」の道を選ばないと言うことは、自身の人生を殺しているという意味です。
感覚的には、自分を殺している、死んでいるのとほとんど同義なのです。
だってそうでしょう?
他人のために生きて何になりますか?
他人は「自分の期待通りになった」という喜びを感じる、それまでです。
一方自分は、その他人の喜びとは釣り合わないほど大きなものを失うことになります。
(具体的には、夢、時間、人生、取捨選択の権利、お金、人間関係…、挙げたらキリがありません。)
「他人のために行動するモノ」として、パッと出てくるのはロボットです。
ロボットは生きていません。自分の意見を持ちません。命令さえあれば他人の期待通りに動きます。
他人の期待にこたえる為に、自分の人生をあきらめるとは、このロボットと同じということなのです。
いつも最後に大切になること
…さて、あなたは他人の期待にこたえようと思いますか?
それとも、自分の信念のもと、人生を歩みたいと考えますか?
いずれにせよ、最終的に尊重すべきは「自分の意志」です。
他人がどう思うかなんて考える必要はありません。
他人がどう思うかを考えているうちは、あなたは自由にはなれません。一生、他人の犬です。
自分の自由な人生を生きたければ、自分の意見にだけ、耳を傾けていればいいのです。
他人がどう思うかなんて関係ありません。
あなたは、あなたの思うままに生きればいいのです。
まとめ
今回の話をひとことで言うと、こうです。
- 期待は相手の人生を殺す
- 他人の期待にこたえる必要はない
また、他人へ期待を向けることも避けるべきですね。
相手の人生を殺してしまう恐れがあるので。
人生の道が分岐したとき、悩むことは悪いことではありません。
時には、他者に相談することもあるでしょう。
しかし、最終的な判断をくだすのは、いつも自分自身なのだと心得てください。
自由な人生を実現するためには、自分の道を進むことが大切です。
コメントフォーム